Ich bin wieder da. -2017/08/27*あまぶん

お知らせを書くのは久しぶりです。
お盆も終わり、人もいない静かな会社も今日でだいたい終わりです。
最近はというと、部長が盆休み中にテニスで事故って鎖骨を骨折したらしく1週間の療養となりました。むしろ来週から出社しようとしているのがすごい。どうやったらテニスで鎖骨を折るのか意味がわからないんですが(波動球が直撃したんですかね)軽々しく女にセクハラをするとそういうことになるんですよっていうことに、しよう!呪ってしまったのかもしれない!



ということでTwitterでは思い出したときに告知していましたが、
8/27(日)尼崎文学だらけに委託参加いたします。
去年のあまぶんでも委託で置いていただいたのですが、今年は去年のラインナップの中でも特に多く売れた本を再びチョイスする「尼崎セレクト」の中に選んでいただきました。
尼崎セレクトのみなさま : http://necotoco.com/nyanc/amabun/writerview.php?writer=1
三部作『blue』が今年もお邪魔いたします。A5版が3冊なので陣取り具合が申し訳ないんですがほかにお預けできるような本がない(悲しい)のでお言葉に甘えて並べさせていただきます。よろしくお願いいたします。

最後にイベント直参してから1年以上も経っているので改めてご紹介というか、去年のあまぶんでいただいた人さまからの推薦文が今でもふと読み返して心の支えになるみたいなうれしいものばかりなのでそれを読んでください!


◇ ミニチュアガーデン・イン・ブルー ◇
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紹介ページ → http://necotoco.com/nyanc/amabun/bookview.php?bookid=231
A5版 / 186p / 500円
 第一部。高校1年生の入学から初夏にかけての物語。
 かつて幼馴染みだった少年3人は10年ぶりに再会し、同じ高校、同じクラスに進学する。
 閉塞感あふれる世界の片隅にある小さな町で、箱庭の中で、少年たちは過去を振り返る。
 語り部、須堂智尋の物語。


◇ 夏 火 ◇
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紹介ページ → http://necotoco.com/nyanc/amabun/bookview.php?bookid=232
A5版 / 240p / 800円
 第二部。高校2年生の春から真夏にかけての物語。
 それぞれクラスは別れ、3人だけで作られていた世界に新しい仲間が飛び込んでくる。
 壊れていく箱庭に怯え、自分の本当の気持ちもわからない。だけど、僕たちには「今」しかない。
 美しき死の少年、因幡陸の物語。


◇ はばたく魚と海の果て ◇
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紹介ページ → http://necotoco.com/nyanc/amabun/bookview.php?bookid=233
A5版 / 174p / 1,000円
 第三部。高校3年生の秋から卒業にかけての物語。
 それぞれが自分の進路に悩み、答えを出していく。町に残るのか、ここを出て行くのか。
 あるひとつの死とともに、自分とは何か、家族とは何か、過去とは何だったのか、
 そしてここから「未来」へ行く。
 闊達な生ある少年、高遠椎名の物語。

実は自分でもひとつ自薦文を書きました。(ミニチュアガーデン・イン・ブルーのページご参照)
ん~~~~~~、名文!!!!!!(えっ)
ライナーノーツみたいなことはあまり好きではないんですがほかにプロモーションの方法が思いつきませんでしてこんな形で改めてご紹介させていただきたく。書き上げて1年経って、振り返ってみて思うことを短くまとめました。
結局は、わたしが、かつて高校生であったわたしが、こう生きたのだということを形にしたかったのだと思います。
あのときはあの世界がすべてだった、他に広い世界があるとどれだけ人から聞かされても、あの世界こそがすべてで、あの町こそがわたしで、だけどかつて10代だった誰にもそんな思いはあるような気がしていて、決してわたしだけじゃない、これを読む誰かだって、きっと覚えはあるはずだと半分祈るようにして書いたのだと思います。
誰もに共感されるとは思っていませんが、それでも、わたしはこの本たちでわたしの知らない誰かの心に傷をつけたい。
書き上げて1年以上経っても、そう思っています。
どうぞよろしくお願いいたします。

ちなみに、当日も午後から居ます。この尼崎セレクトさんと白昼社セレクトさんの委託ブースの書店員を今年もやります。考えてみたら去年のあまぶんの書店員参加以来、1年以上ぶりにイベントに行きます。
ちょっと緊張してますが、午後からお買い物される方には頑張ってにこやかな接客に努めますのでよろしくお願いいたします。こ、怖くないよ!
朗読会についてもちょっとだけ準備していますが、こちらは当日の気分で決めます。でも歌いたい(えっ?)


重ね重ね、よろしくお願いいたします。考えてみれば自分で参加料払って出店するわけでもなくただ主催のご厚意でお邪魔させていただいているとてもいいご身分で、自分ではここ1年ほとんど何も活動していなかったのに今もこうして声をかけていただけること自体がほんとうに奇跡みたいでありがたいことです。このイベントが終わればまたしばらく表には出ないつもりなので、わたし本人に興味はなくても(笑)お立ち寄りの際にはぜひ拙作blueを手に取ってみてください。
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当日こんなPOPつき見本誌を用意しています。すさまじい手描き感。


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このワンピース着ていく予定です。ハイ自慢したいだけ!一目惚れブーシェなワンピース!
(浪費癖がばれる…)
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サイダー(Summer)

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 少女のふしぎな性の目覚め。気づけばそれなりのR-18だった。

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I my me mine 或いは届かないSehnsucht

 物語るとは、神に自分の存在を証明すること。
 わたしはここにいる、ここで、息をしている、今ここにいる、ここにいる、ここで生きている、生きている。わたしの生を、この呼吸を、存在を、全力で訴えるため声を上げるもの。

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歌手 鬼束ちひろについて書きました。
10,000字を超えるという自分でも引く結果になったうえ多大な妄想と誇大解釈オンパレードの力技で押し切っているので解釈違いは死ねと言われてももう知りません。フィクションとしてお楽しみください。

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辻さんのはなし

 朝5時半に1回目のアラームが鳴る。2回目は6時に鳴る。デッドラインとして7時にダメ押しの3回目が鳴る。たいてい7時まで寝ていることはない。感覚としては5時半にwake up、6時にget upという感じだ。その日もわたしはそのリズムで目を覚ました。ベッドから身を起こし、そうだ辻さんを探さなくては、と真っ先に思った。が、辻さんって誰だ? 改めて考え直すとそれは夢の中の出来事を引き継いでいるだけなのだった。ひたすら辻さんという人を探す夢だった。年々、夢を思い出すのが難しくなっていく。起きた直後であっても、今日みたいに「辻さん」というワードだけを残して映像がすぽーんと蒸発してしまうのだ。子供の頃はそうでもなかったのにな、とぼんやり思いながらわたしは立ち上がる。半分開けたままのカーテンの隙間からは突き抜けるような青空が覗いていて、窓を開けると思っていたよりも涼しい風が入り込んできた。この気温なら走っても熱中症にはならないだろう。私はジョギング用のジャージに着替え、コップ一杯のポカリスエットだけを呷って部屋を出た。今住んでいるマンションから歩いて1分のところにそれなりに大きな公園があり、すっと起きることができて、なおかつ天気がよくて、なおかつ暑すぎることもなくて、なおかつわたしの気分が向いたときにだけ、気休め程度のジョギングをすることにしている。日課と呼ぶには不定期すぎるので、健康への効果もあるのかないのかはなはだ怪しい。むやみに走って筋肉痛で1週間歩くのも困難なときもあったし、それがやっと治ってこれでまた走れるぞと意気込んだ矢先に梅雨が来たりと、その程度のことでわたしの決心は簡単に揺らいでしまう。だからわたしはこれを無理に日課と決めるのをやめた。むしろ前述の条件がすべて揃うことの方がラッキーなのだ。ジョギングをするかしないかはluckで決めるのだ。もうそんなものでいい。人生なんてその程度。
 マンションを出ると、確かに暑くはないものの落ちてくるようなものを感じる。暑さとは重力だ。近いうちに蝉が鳴き出し、ジョギングどころではない地獄の夏がやってくる。
 公園に着くと、朝から犬の散歩にいそしんでいる人々があちらこちらで談笑している。もちろん歩いている人走っている人いろいろいる。わたしは入口でなんとなくの準備運動をして、なんとなく走り出した。走りながら、辻さんのことを考えていた。映像というか、ストーリーは完全に抜け落ちているものの、辻さんがどういう人だったのかはなんとなく思い出せるような気がした。やたら彩度の高いビビッドな恰好をして、よくわからないが不思議な力を持った人だった。たぶん占い師とか魔法使いとかそういう職業に就いておられる辻さん。どうしてその辻さんを探していたのかはやはり思い出せない。ただ、辻さんは男性だった。これは確かだ。夢の中のわたしに何かしらの関わりがあった辻さん。しかし、案外地味な顔立ちをしていたような気がする辻さん。
 また筋肉痛が起こる! と思ったところでわたしは足を止めた。疲れただけだ。急に足を止めると余計に心臓がばくばく言って頭の血管が切れそうな頭痛が走る。こういう無理な走り方をしているのでむしろきっとこのジョギングは体に悪い。だけどこの垂直に突き抜けるような晴天と、空気を満たす朝日の粒子はたまに身を投じるととても気分が良い。気分。そう気分。健康なんて気分だ。人生なんてその程度。
 独りよがりな満足感をたたえ、髪の間を汗が伝うのを感じながらわたしはUターンする。ちょうどバラが咲いているからそれでも眺めながら帰ろうと、ランニングコースからずれて公園をちょうど横断するように歩き出した。赤、オレンジ、黄色、桃色、少し青みがかかったものもあって、この先の生活でバラにだけは困らないなと思う。バラがないと困る生活なんて送っていないけれど。なんとなく、きれいだなくらいにしか思わない薄っぺらな鑑賞を終え、またランニングコースに合流する。等間隔に置かれたベンチには今のところ、ラジオを隣に置いた老人や足元に寄ってくるハトをぼんやり見ながらランニングを休憩しているお兄さんなんかがいたりした。
 その、ハトをぼんやり見ていたお兄さんが、歩いてきたわたしに顔を上げた。
「辻さんのお気に入りは西陣織なんですけどね、たまたま昨日は友禅染しかなかったみたいです。彼もあなたに会いたがっていたんですけど、急遽ロンドンへの出張が決まりまして慌てて出発しちゃったんです。まあでも辻さんの拠点は大阪なんで、そのうちまた会えますよ」
 そこまで言ってお兄さんはゆっくりと立ち上がり、人の好さそうな笑顔で小さくお辞儀するとまたランニングに戻っていった。わたしはその背中を見送りながら、友禅染ってそんなに派手な着物だったっけ、と首を傾げた。

辻さんのはなし / 20170715

#深夜の真剣文字書き60分一本勝負
(お題:夢喰い)

キダサユリ著 『よるべのない物語Ⅱ』




キダサユリさん『よるべのない物語』シリーズについては、縁あって前作のレビューを書かせていただいたことがあります。人から頼まれたものであったことや、レビューと言うからにはわたしの文章でひとりでも多くの方にこの作品に興味を持ってもらえるようなものを書かなければならないと思ったことで、わたしなりに、制限字数はあれどその範囲の中でやれるだけのことはやろうとドトールの電源席で何度も頭が真っ白になりながら、うんうん唸って書いたのを今でもよく覚えています。そんなこともあり、それ以来わたしは勝手にキダさんとのご縁を感じその創作活動を追いかけているひとりであります。飽き性なわたしはその後ふいっと創作文芸イベントから勝手に遠ざかってしまい、そのことに対して特に何を思うということもありませんでしたが、唯一、この『よるべのない物語Ⅱ』を買う機会を持てなかったことが心残りでした。しかし今回カマタまで文学だらけ通称かまぶんにキダさんがご出展されることを知り、主催のにゃんしーさんに「実はキダさんのよるべのない物語Ⅱが欲しいんだよね」とふと漏らしたら「じゃあキープしとくよ」と願ってもないお返事をいただき、それでも本来なら自分できちんと出向いて直接そのキープいただいた一冊を買うというのが筋であるべきでしたが結局なかなか足が向かず、会期終了後に個人的にお受け取りさせていただきました。かまぶんでの、わたしの唯一のお買い物です。

前作のレビューにおいて、わたしはこの作品を「グロテスク」という言葉で表現しました。人と何かが混じり合うこと、人間の対となるものは必ずしも同じ人間である必要はなく星だろうと鳥だろうとトカゲだろうとその可能性はあるということ、そしてキダさんは人と、人でないものを対等な土俵に立たせて物語を作る独自な視点をお持ちの作家であるということを主に書きました。しかし、前作のレビューにおいてわたしは何だかいちばん大事なところをスルーしていたように思います。それはタイトルである「よるべのない」という言葉への言及です。本作を読み終え、わたしはまた本棚から前作を取り出して読み返しました。そして、この「よるべのない」という言葉がキダさんの中で、この2年間のあいだに変化が生じたこと、それが2年前とは異なる発露をしていることを感じました。
前作は5つの物語から成り、本作は3つの物語から成っています。しかし、だから全体のボリュームも減ったのかと言えばそうではなく、1話ごとの長さは伸びています。そして、わたしが感じた変化はここなのですが、この『よるべのない物語Ⅱ』における「よるべのない」は前作よりも差し迫ったもの、そのことによって物語の中の人物、あるいは動物たちの心を強くざわめかせるものになっています。前作の物語たちは、作者のキダさんによって、そして読者であるわたし(およびその他多数)によって客観的にいわば便宜上「よるべのない」と表されたにすぎず、物語の中にいる彼らは自分たちのことを「よるべのない」とは思っていません。無自覚なのです。それに対して本作では、彼らは自分のよるべのなさをはっきりと自覚しています。居場所がない、取り残されている、自分は他人とは違う、だから、「さみしい」のです。つらいし、かなしいし、不安だし、ざわめいているのです。物語のひとつひとつが長くなったことによって、彼らの心は前作よりも深く掘り下げられているように思います。前作の物語たちは、もちろん本作もそうですが、とても綺麗な形をしていました。どこから見ても良い形をしていて、手触りもよかった。だけどそれは表紙のダイヤが表しているように、あくまで「良い形であること」が大事だったのだと思います。その中に通う血の温かさや形にしづらい感情のことはちょっと隠しておこう、というのが、本作と並べてみるとふと感じられました。その、前作では隠されてしまったものたちが今度は前に出ています。どこから見ても良い形をしているのは変わらないまま、中から聞こえてくる声の大きさが違います。訴えかけてきます。だからわたしは、彼らの「よるべのなさ」を強く感じます。キダさんもまた、この「よるべのない」という言葉を強く意識されたのかもしれません。客観的に捉えられていたこの言葉がぐっと主体的になったということが、わたしが本作を読んで感じたいちばん大きな変化でした。別にどちらが良いとか悪いとかではなく、上手くなった下手になったとかでもなく、ただ、「変わった」というだけです。だけどこの変化こそが作家にとっては大事なのだろうと思います。常に、更新していくこと。わたしはキダさんの本はおそらく全て持っています。確かな足取りを感じます。ひとところに留まって作品を作る方ではなく、常に歩き続けながら作る方なのだと思います。ご本人に、その意識はないかもしれないけれど。

だけど同時に、本作で感じた「よるべのなさ」、心のざわめきはキダさんご自身の心の発露でもあるのかもしれないと思うと、少し、大丈夫かな、無理してないかな、と心配になりました。何かを作るということは多かれ少なかれ身を削るということです。キダさんの作品群はどれも洗練されていて隙がなく、見た目もよければ中身もよしという、まさにアートなものたちなのですが、これだけのものをコンスタントに作り続けるのはもしかしてめちゃくちゃ負荷があるのでは…と、人任せにすることが多いわたしはぞぞっとします。そして、作品について語るときに作者の人間性にまで言及するのは多少ルール違反だろうということを覚悟の上で書きますが、キダさんご本人はとても穏やかで優しくて、じいっと辛抱強くものごとを見つめる繊細な方なのです。(※全部わたしの主観です)わたしは何も考えずに生きてることを人に詰られるような人間なので、キダさんのような方を見ていると、いいなあ〜と思うと同時に自分が知らぬ間に何かキダさんの大事なものを踏み潰してしまうのではとはらはらしたりもするのです。そこまで深い付き合いはないだろう何サマだ!と怒られそうですが。

だけど、本作「渡り鳥のテーゼ」を読んで、キダさんはきっと充電を無事に終えて、またゆっくり起き上がる日が来るのだろうな、と確信しました。作品を作ったり作らなかったり、ぱったりやめてしまったり、波がある人はたくさんいるけれど、キダさんは、来るべき日が来たら再び動き出せる方だと思います。世界のあれこれ、自分のあれこれを少しずつ取り込み、片付けながら、常に新しい何かがその心の中に生まれつづけているのだと思います。キダさんの作品たちは、キダさん自身の生きるよろこび、作るよろこびに溢れているからです。