絶筆ミッドナイト

 真っ暗な部屋のなかに一人横たわっていると、わたしの遺書が惑星のようにこの宇宙を飛ぶ。先立つ不孝をお許しください、わたしはもうじゅうぶんに生きました、これからも人生は続くのだと思うともうここいらで、この手で、終わらせるのを許してほしい、わたしはこの先の一年を想像することが、全く、不思議なくらいに、できないのです、と、ありきたりな月並みの言葉が天井のあたりをさまよっているのを、ぼおっと、見ている。なんとなく目元に眠気は確かにあるのに、言葉がぽーん、ぽーん、とのろまなピンボールのように壁や天井にぶつかって出口もなくふらふらしているのがどうにも気になって、目を閉じることができない。カーテンの隙間からは向かいのマンション、遠くのビルの明かりがちらちらと光り、それが唯一この部屋を照らしている。ベランダ。あのカーテンの向こうはベランダにつながっている。最近、ベランダにやたら恋い焦がれる。ベランダがわたしを呼ぶ。べつに、飛び降りようとかしなくていいのよ、ただ、ここに立つだけでいいのよと、朝も昼も夜もベランダがわたしを呼ぶ。「カーテンの隙間から見えるベランダ」というものがわたしを呼ぶ。わたしはまた天井に目を移す。遺書は変わらずぽーん、ぽーんと浮いたり沈んだりを繰り返している。もう、もう、もう、生きて、生きて、生きて、いたくない、いたくない、いたくない、痛くない、眠りたい、薬を飲んでからどれほどの時間が経っただろうか、部屋が真っ暗で、あまりにも真っ暗で、時計も、何も、見えない。明日は見えない。ベランダがわたしを呼ぶ。わたしは体を起こし、わたしを吸い寄せてくるベランダに向かい、はらはらと泣いた。音もなく声もなくただ涙だけを両目から流した。ごめんね、死ぬ準備は何もできていないの、遺書はたしかにこの天井を漂っているけれど、それじゃあ誰も読めないの、わたしが死ぬときはせめてスマートフォンとパソコンの暗証番号だけはどこかに残しておきたいの、わたしのツイッターもフェイスブックもインスタグラムも完全になきものにしてもらわなくてはいけないの。それに、死んだあとになって他人がわたしの死にあれやこれやと憶測を立てるのもいやなの、ということはわたしはきちんと説明しなければならないの、なぜわたしが死ぬのかを、なぜ、どうして、誰のせいで、何のせいで、そういうあらゆることをわたしのこの言葉ではっきりさせておかなければ、責められるいわれのない人が追い詰められほんとうに責められるべき人が逃げおおせてしまう、だからわたしはきちんとペンを取ってこの遺書を遺書たらしめなければならないの。だけどそうするには、時間が足りないの。明日は月曜日で、わたしは仕事に行かなきゃならないの、朝もちゃんと起きなきゃならないの、そのためにはもう、眠らないといけないの。わたしはわたしの意識によって食いつぶされていく時間を思い泣いた。今、泣いているこの人間はたしかにわたしで、他の誰でもなかった。最近、あらゆる人格、あらゆるわたしから置き去りにされている、寂しくてたまらない生のむきだしの裸のあるがままのわたしだった。わたしは今このときほんとうに一人ぼっちだった。ああ、いとしいベランダ、ねえベランダ、だけどそんな長ったらしい遺書など書かなくてもいいのなら、そしてわたしに、あなたの手を取る勇気があるのなら、あるいは
 だめよ。違う子の声が聞こえた。もうベランダを見てはいけないわ。見てはだめよ。あそこに行っちゃだめ。あなたは生きなくてはだめよ。生きるのよ、生きるのよ、死んではだめ、死なないのよ、金髪のツインテールをした小さくてかわいい女の子が、床に座り込んだわたしの前に座り、わたしの手を握っている。生きるのよ。そう言って彼女はわたしの右腕にカッターナイフの刃を立てた。生きるのよ。シャッ。死んではだめ。シャッ。死なないのよ。ガリッ。ベランダに行ってはだめ。ガリッ。生きるのよ。行ってはだめ。生きるのよ。彼女はわたしの声で、わたしにただただ生きろと言った。なぜどうしてだれのためなんのために、かは一言も言ってはくれなかった。ただ、刃を走らせ生きろと言った。
 そろそろ痛い。ひりひりする。もういい。飽きた。金髪の少女はいなくなり、私はカッターナイフを放り投げ、肉が食べたいと思った。部屋の電気をつけると時計は23時半を指していた。私は財布を持って部屋を出た。6月の夜は思っていたよりも寒く、薄手の長袖を通り抜けて冷たい空気が腕を撫でていった。歩いて1分のコンビニに入り、まっすぐレジへと進んでファミチキを買った。コンビニを出て空を見上げると、まるで太陽かと思うくらいに月が燦々と、みごとに輝いていたけれど、裸眼のわたしは彼女の輪郭を捉えることはできず、満月なのか、半月なのか、なんの区別もつかなかった。
 部屋に戻り、床に座り込んで肉を食べた。味が濃い。油が多い。お腹がぐるぐると鳴っている。これがわたしの血肉となるのか。わたしの体にはこうして肉が与えられていくのか。死ぬ意思とはどこに。わたしは生きようとしている。わたしの体は生きようとしている。わたしの遺書がどれだけ天井の宇宙を巡ろうともわたしの体は生きようとしている。それでもわたしはベランダにも恋い焦がれている。わたしの体が宙に浮き、ほんの数秒でも空を飛び、墜落する瞬間を夢見ている。カーテンの隙間よ、そこから見える、無限の愛よ。
 だけどそれは今ではないというだけの話だ。私は肉を食べ切り、袋をゴミ箱に突っ込んで明日の分の薬をまた呷った。歯も磨かずにベッドに潜り込む。ちょうど、0時。
 そういえば米を研いだんだった。明日の6時に炊き上がる。明日は、炊き立てのご飯が食べられる。


20170605 / 絶筆ミッドナイト

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オカワダアキナ著 『ぎょくおん』

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D a s   i s t   g a n z   g e n a u   e i n   T h e a t e r .


 映画と演劇の違いとは何だろう。あるいは、小説と戯曲の違いとは何だろう。
 思うに、発信者と受容者というふたつの対極する立場に焦点を当てて考えるとき、発信者が受容者に対して作品を「差し出す」のか、もしくは発信者が受容者を作品に「引きずり込む」のかという違いではないだろうか。前者が映画・小説、そして後者が演劇・戯曲である。演劇は映画や小説と比べ、役者と観客の距離が近く、そしてリアルタイムで繰り広げられる。一時停止も巻き戻しも早送りもできない。観客は演じる役者たちと同じ瞬間を強制的に共有させられる。また、世界が舞台上で完結するため、人物たちの役割がはっきりしている。
 本作品「ぎょくおん」は、小説の形をした演劇作品であると思う。読者は主人公、郡司の独白形式の一人称を追う。それはまるで声に出して語られているかのようだ。また、登場人物の配置からも伺える。演劇には物語の始まりと終わりで人物に何らかの変化を持たせるというセオリーがあり、これは主人公である郡司が負っている。そしてその郡司を取り巻くアランと七美は彼に常に郡司に外部からはたらきかける役割を負っており、それが彼に変化を促している。ゆえに、アランと七美には変化という責務はなく、アランに関してはまるで神の降臨を思わせる(ちなみに私はアラン役にはニールス・シュナイダーがぴったりだと思う。気になった方はグーグル先生に聞いてみてほしい)。読者は郡司の深淵に引きずり込まれていく。私はこの作品を2時間ほどで読み切った。それもまた、限られた時間で勝負する演劇を思わせる。
 私だったら、この作品をどう演出するだろうかとずっと考えていた。椅子が置かれた舞台に、役者たちを座らせる。座らせたまま、喋らせる。「姉」だけは観客に背を向けさせる。その周囲を、「死」の概念を表象したダンサーが誰とも目を合わせず、静かに動き回る。時折舞台は暗転し、焦土と化した街がフラッシュバックのように映写され、爆音が轟く。
 終章、郡司はようやく、そして初めて「死」と目を合わせる。そのクライマックス、彼がどう「死」と対面するのか、その瞬間をぜひ見届けてほしい。


2016/07 尼崎文学だらけ レビュー投稿

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北陸アンソロジー 『ホクリクマンダラ』

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北 陸 の 魅 力 を あ な た に も


 北陸三県をテーマにしたアンソロジーが発行される。このことを知ったとき、富山県のとある町、まさに北陸出身の私はまず、思った。

 えっ、なにもないよ? ただの田舎だよ? 需要、あるの?

 たいへんに失礼なやつである。跳び蹴りを食らわされても何も文句は言えない。

 しかし、ご縁があって寄稿させていただくことになり、故郷をテーマにみんなで作品を作るということはこんなにも楽しいものなのかというものを身をもって知った。同じように北陸をテーマに作品を書く方――それは北陸に縁のある方、北陸に関心がある方である――がこんなにたくさんいる! ということは、ひたすらに故郷を心の底でディスり倒してきた私には新鮮な発見であり、不思議でもあり、なにより、とても嬉しかった。どんなものが読めるのだろう、どんな景色が見えるのだろうとお目見えがずっと待ち遠しかった。

 そして、満を持して発行されたこの『ホクリクマンダラ』。主宰から一冊受け取り、電車の中で夢中で読んだ。本を閉じたとき、私は北陸三県がいかに、いかに多種多様で魅力あふれる場所なのか全く理解していなかったということに気づいたのである。寄稿された方々それぞれの中に、それぞれの想いでもって北陸という地が息づいている。それは小説、エッセイ、紀行文、短歌、イラストという形で、私たちに北陸の魅力を語りかけてくる。海へ向かってドライブしたり、ふらりと旅行に来てみたり、真夜中にホタルイカを見に行ったり、川や列車が擬人化されたり、ここに列挙するだけでもバリエーションが豊富で、もちろん、それだけではない。珠玉の作品たちが集まっている。ぜひ、お気に入りの作品を見つけていただきたいと同時に、ぜひ、北陸の地への旅のお供にこの本を連れて行ってほしいと思う。


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正井 著 『沈黙のために』

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降 っ て く る


 冬の凍える日。つめたい風が吹きすさぶなかに、あなたはひとりで立っているとしよう。頬にあたる空気は痛く、指先は凍りついたように悴んでいる。限界まで体が冷え切ったとき、あなたはその指先を水に浸す。すると、同じく冬の日にあってつめたいはずのその水が、その指にとってはあたたかく感じられることがある。冷えた体に牙を剥くかと思われた水は、あなたに、やさしく寄り添ってくれる。
 全6作の少し不思議な短編が集まった本作『沈黙のために』は、そんな本であるような気がする。正井さんの文章は、季節にたとえるなら冬だと思う。ぴいんと張り詰めた、細い糸が集まったような空気、ぱらぱらと降る雪、白く霧のように一瞬生まれては消える息。そんな世界を、わたしは感じる。それに加えて、少しほほえんで、手を伸ばしてくる死のにおいがある。だけど、死は、眠りのようで、深くて、おだやかで、やさしい。さみしいのに、ひとりじゃない。寒いのに、あたたかい。悲しいのに、おだやか。そして沈黙しているのに、とても雄弁。そんなやさしい二面性が、正井さんの文章にはあるような気がする。
 また、言葉が持つ密度もとても濃い。選び抜かれた言葉たちである。彼らは自らの意識を持ち、文字という形から自由になって、解体されて、わたしに降ってくる。それは最初に収録された「フォスフォレッセンス」の世界であるかのように。
 この本の物語たちは、Twitterに投稿されたものがもとになっていることにもたいへん驚いた。わたし自身Twitterはよく利用するけれど、この物語を紡げるような連続性をわたしは持たせることができない。しかし、前述したようにこの本の言葉たちは自らの意思を持って、ぽつりぽつりと降ってくる。それはまさに、Twitterから生まれたものだからなのかもしれない。正井さんはこのツールを使うことによって、この物語たちを「ことばそのものを楽しむ」ものに昇華したのではないだろうか。
 ちなみにわたしは、本作のなかでは「E」と「冬の群、馬数ある中の」がとても好きで、何度も読み返した。これらもTwitterがもとになっている物語だ。
 ぜひ、この本に耳を傾けてほしい。沈黙してほしい、彼らの声がよく聞こえるように。


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キダサユリ著 『プエラの肖像』

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「 少 女 」 が 見 せ る も の


 少女とは、7歳前後から18歳前後の女子を指すという。その10年弱の間にどんなことが起こるのだろうと考えたとき、女性の一生を形作るような転機と呼べるものがこの期間に集中している。それは私たちが意識していようといまいと、誰のもとにも平等にやってくる。少女は、ある意味ではいくつもの通過儀礼の象徴であると考えられる。
 本作『プエラの肖像』は、キダサユリさんによる「少女性」をテーマにした短編集だ。わたしがまず心を惹かれたのは、物語を追うごとに、「少女」が変化していくということ。全5話から成る物語のなかで、少女は、幼く庇護から抜け出せない存在、自我を持ち始めた存在、第二次性徴を迎えた存在、受胎する存在、そして愛に目覚める存在と、いわば成長していくのである。
 また、キダさんは「ヒトでないものとの交わり」を描くことに長けた作家であり、それは本作でも遺憾なく発揮されている。少女の成長の過程にかかわってくるのは例えば卵であったり、鳩であったり、ウサギであったり、またはミュージシャンへの憧れというかたちないものであったりする。注目してほしいのは、ここに「生身の男性」という存在がないということ。ヒトでないものによって、少女は大人になっていく。
 これは何を意味するのだろう。それを考えたとき、わたしのなかに、ある本質的な問いが浮かんだ。
 それは、少女を規定するものは何であるのか、あるいは、少女とはそもそも規定され得るものなのだろうか、ということだ。わたしたち女は、もしかするとヒトの力が及ばないところで「少女」であったのではないか。それはある種、現実から離れたところにいる時間、ひょっとすると、絶対的に聖なる存在であった時間。キダさんはそれを示しているのではないか。ここに描かれているのはぎりぎりまで突き詰められた少女性であり、この本によってわたしたちは、否応にも自分がかつて少女であった時間のことを考えずにはいられないのだ。
 大人になったわたしたち、少女から抜け出たわたしたちは、今、どこにいるのだろう。
 迫ってくるのは、手に入れたものは、成長か、現実か、あるいは、破滅か。


2016/07 尼崎文学だらけ レビュー投稿

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